清水富美加さんと「いい宗教、わるい宗教」、あるいは「カルト思考」について
ちまたでは、女優の清水富美加さんの「出家」騒動が、話題になっているようです。
今回は、瞑想自体の話ではありません。
けれども、根拠のあやふやなことを信じている自分に気づくことは、瞑想の大きな目的の一つです。
そこで、清水さんという一人の大人が、自分の意志で決断したことについては、これ以上ふれませんが、「新興宗教=カルト」が抱える問題、そして、ぼくたちの社会全体が抱えている「カルト思考」という問題について、この機会に少し書いてみようと思います。
- 「カルト」が問題なのではなく、「『カルト』を生み出す「社会」が問題なのでは?
- いい宗教、わるい宗教
- カルトの子、児童虐待、核家族
- 「カルト思考」から逃れられるか
- 「信じること」にして、「カルト思考」を使いこなす
- 信じることにする、そして「洗練された利己主義」を身につける
「カルト」が問題なのではなく、「『カルト』を生み出す「社会」が問題なのでは?
何か事件が起こると、その事件を起こした人に「問題」があると、つい考えがちです。
しかし、事件には「背景」があり、「背景」をくわしく見ていけば、それはぼくたちの生きている「社会」や「時代」と地続きであることに気づかざるを得ません。
「カルト」には確かに問題があります。もっと一般的に言って「宗教」自体にも、矛盾や危険があります。
けれども、「カルト」や「宗教」をなくせば、クリーンでハッピーな「社会」が実現するのでしょうか。
たぶん、そうはならないでしょう。
「カルト」はぼくたちの生きる「社会」が作り出しているものです。
ですから、「カルト」の問題を考えるためには、「社会」の問題を考える必要があり、それは結局、「人間」という「矛盾した欲求の集まり」について考えることにほかなりません。
いい宗教、わるい宗教
悪い宗教と良い宗教があるのか という匿名の記事に対して、たくさんのみなさんが自説を開陳しています。
「いい」も「わるい」もない、という真っ当な意見も見受けられます。
それぞれのお考えは尊重したいと思います。
しかしながら、「カルトとは悪いものである」といった考え方自体が「カルト的」であることに、気づいていない方も多いようです。
「カルトとは悪いものである」というとき、「カルト」の定義もなければ、「悪い」の定義もないのですから、曖昧模糊とした現象を自分の独断で否定しているだけのことであり、そうした「独断」にもとづく「決めつけ」こそが「カルト」の本質だと思うからです。
カルトの子、児童虐待、核家族
幸福の科学出家騒動は清水富美加個人の責任なのか? カルト宗教信者の子どもたちが抱える問題|LITERA/リテラ という記事には、エホバの証人や、統一教会などの問題点が、信者の子どもの問題として語られています。
信者である親の「盲信」によって子どもが傷つく。実際に暴力がふるわれる。これは問題です。
子どもは親を選ぶことができない。しかも、親も熱狂的な信者であれば、家族でも解決することはできない。こうした問題を社会で解決できるような仕組みを考えていく必要があるのではないか。
という結語には、まったく同感です。
しかし、「児童虐待」に関する問題は、「カルト」だけの問題ではなく、その背景には「核家族化」の問題があります。
核家族化によって、家庭が密室となることによって、家庭自体が「悪の温床」となりかねない危険性が生まれるからです。
自分のことで精一杯で、人のことまで気にしていられない。そうした社会の空気が、孤立した核家族を生み、孤立しているがゆえに「宗教」に救いを求めるという構図も生じます。
「カルト思考」から逃れられるか
また、こうしたことと同時に、考える必要を感じるのは、ぼくらの「社会」自体が、程度の差こそあれ、やはり「カルト的」でしかない、ということです。
たとえば、ほんとうに「原子力発電は必要」なのでしょうか。
誰かが自分の利得のために行なっているのではないと、証明できるでしょうか。
証明できないことを信じるのは、ただの「盲信」です。
「独善による盲信」は「カルト思考」にすぎません。
ぼくたちの生きる社会は、そうした「盲信」でいっぱいではないでしょうか。
ぼくたちは、マスメディアによって、子どものころから「洗脳」されているのです。「洗脳」という言葉が強すぎるというのなら、「催眠」や「暗示」という言葉で置き換えてもいいでしょう。
確認もできないような、さまざまな「考え」がぼくたちの頭に注ぎ込まれ、みんながそれを信じている以上、自分もそれを信じざるを得ないのです。
このことには、政治的な立場も、宗教上の信念も、あるいは科学的な態度さえ関係しません。
もちろん、こうした「暗示」の影響を受けにくい人と、受けやすい人の違いはあります。
けれども、こうした「暗示」の効果、そしてその結果としての「カルト思考」は、社会性の動物であるヒトにとって極めて自然なものですから、これから完全に逃れることなど、できない相談なのです。
「信じること」にして、「カルト思考」を使いこなす
そもそも、人生で出会うすべてのことに確実な根拠を求めること自体が、無理な話です。
人間は、完全に科学的・論理的・理性的になどは生きられないのです。
自分の感覚に基づいて、何かを信じなければ、人は生きていけません。
このとき、「信じること」を「盲信」にせず、「カルト思考」におちいらないためには、ただ「信じる」のではなく、「信じることにする」という態度が有効です。
「原子力発電は使わないほうが人類のためである」ということは、証明できることではありません。
ですから、このことをただ「信じる」のではなく、とりあえず、「これは正しいはずだ」と「信じることにする」のです。
「正しくない可能性」も否定しないで留保しながら、「正しいはずだ」と信じるのです。
このようにして「信じることにする」とき、その論理的な根拠は必要ありません。自分なりの倫理観、自分なりの直感に基づいて、信じることにすればよいのです。
信じることにする、そして「洗練された利己主義」を身につける
自分が「信じることにした」ことについては、人を説得する必要もありませんし、人からおかしいと言われても、気にする必要もありません。
実のところ、人間は、だれもが利己的な存在なのであり、洗練された利己主義には、他者の尊重や、自己犠牲がともなうだけなのですから。
お釈迦さまの教えは、まさにこの「洗練された利己主義」であるといってよいでしょう。
お釈迦さまは、「自分の教えを盲信しろ」とは決して言いません。「自分はこう思うから、あなたも実践して確かめてください」と言うのです。「信じることにしてください」というわけです。
そして、「人のことよりも、まず自分の行ないを変えなさい」と説きます。
自分が良く生きられるようになれば、まわりの人にも、その良さを分け与えることができるようになるからです。
これをお読みの皆さんも、どうか、自分を高めるために、みなさんの貴重なお時間を、ほんの少しだでいいので、使ってみてください。
自分を高めることは、楽に生きることです。
そのためには、しんどさも付きまといます。けれども、やみくもに厳しい修行をしろというわけではありません。
はじめは、朝晩の五分ほどの深呼吸とか、気がついたとき、時間があるときに、深呼吸を三回してみる。そんなくらいのことからで、かまわないのです。
そうやって、自分の体の緊張や、心の動きに慣れ親しんでいくと、あるとき、思わぬ自分の思い込みに気づくような経験が訪れます。
頭で理解するのではなく、体の実感としての理解が生まれるのです。
自分がいかにあやふやな話を信じているかに気づくことによって「カルト思考」から逃れ、「洗練された利己主義」を身につけていくに連れて、あなたの人生は確実に充実したものとなっていくでしょう。
最後までご精読ありがとうございました。
あなたの人生がいつも健やかなものであるよう、お祈りします。
ではまた。